倶楽部概要

1954年(昭和29年)10月10日 中部地区戦後初のゴルフ場として、「愛知カンツリー倶楽部東山コース」は開場した。
戦後5~6年を過ぎ、名古屋財界では、名古屋市を世界に通用する国際都市に発展させていくためには、ゴルフ場というスポーツ施設は、どうしても必要であるとの思いを強く持っていた。しかし、当時唯一のゴルフ場であった「名古屋ゴルフ倶楽部和合コース」が、米軍に接収され外人専用となっており、一般プレーヤーが思うようにプレーできないことから、もう一つゴルフ場を造りたいと考えていた。

また、その当時の愛知県では、戦後の復興と開発が名古屋市を中心にして急速に進んでおり、市内にある牧野ケ池緑地を、隣接する地域との間に設ける自然を大切にした緑の緩衝地帯として、将来に亘ってその緑を守っていきたいとの考えを持っていた。

このような財界と官界の思いが、当時の名古屋商工会議所会頭 伊藤次郎左衞門氏と愛知県知事 桑原幹根氏との間で一つとなり、緑を守るためと国際都市を目指す名古屋のスポーツ施設としてのゴルフ場建設の動きが高まり、建設の具体的活動が始まった。

まず、ゴルフ場建設に際しての設計者を、40代半ばの働き盛りを迎えていた名匠井上誠一氏に決定し、ゴルフ場建設候補地として、愛知県が緑を守っていきたいとする牧野ケ池緑地と森林公園地内の二ヶ所を選定し、井上氏が現地視察を行った。井上氏の視察の結果は、迷うことなく牧野ケ池緑地を建設地として選択した。井上氏本人が完成後に牧野ヶ池緑地を選択した理由を『自然地形がゴルフコース用地として理想的であり、各ホールが松林などにより自然のままセパレートされており、こんな素晴らしい用地は日本中探しても恐らく得難いと思った。』とゴルフコースの素材として秀逸であったことを語られている。

こうして官民が一体となったゴルフ場建設が始まったが、途中、幾多の難題が生じたものの官民がそれぞれゴルフ場建設の理念を前面に出して説明、対応することにより諸問題を解決、名匠井上誠一氏の渾身の名コースが、当時としてはチャレンジングな高麗芝ワングリーン仕様で誕生したのである。

開場以後、当地区のチャンピオンコースとして不動の地位を築き、日本オープン3回 (昭和32年、同46年、平成22年)、日本アマ3回 (昭和35年、同39年、平成19年)、などを始めとして、数多くの公式競技、トーナメント競技を開催し、名古屋市の発展とともに名門ゴルフ場としての地位を確立していった。

しかしながら、時代がすすみ、ゴルフの発展、進化が急速に進む中で、愛知カンツリー倶楽部は立派な歴史があるが故に自己改革が遅れがちになり、特にバブルが弾けて以降、経営状況の悪化と併せいわゆる名門の輝きも薄れる状況に陥った。

そのような中、名門復活を訴える会員の声の高まりを受け、開場50周年(2004年平成16年) を節目として、名門復活を果たすべく経営の立て直しを進めるとともにグリーンベント化、練習場・駐車場の拡張、ティインググラウンド改修などの積年の課題を解決する事業を積極的に実施した。その結果、コースは見違えるほど輝きを取り戻し、その評価は従来を凌駕するほど高まり現在に至っている。

施設概要

開場 昭和29年10月
コース 面積:71万平方メートル(21.5万坪)
設計:井上誠一
ハウス 3,300平方メートル(1,000坪)
設計:株式会社日建設計
施工:大成建設株式会社

所在地

所在地 〒465-0067
名古屋市名東区猪高町高針字山ノ中20-1
電話 052-701-1161(代)
ファックス 052-703-0008
E-mail acc1@eagle.ocn.ne.jp(代表)
acc2@blue.ocn.ne.jp(フロント専用)

役 員

理  事  長  小 倉  忠
常務理事        堀田 勝市
理  事        大 島  卓     梶本 一典   茶村 俊一   中村 昭彦
               水野 明久    安井 香一          渡邉 和義
監  事        宮﨑 信次            村橋 泰志

提携ゴルフ場